【 曁艶失脚事件 】
  • 孫権は夷陵・曹丕の三方面進入計画という一連の軍事侵入の危機を回避した後,蜀の実質の中枢を担う孔明との協調路線を強化していく。劉備とはうまく行かなかった孫権だが,孔明とは協調できたようで,223年11月には蜀からの使者・鄧芝が公式に呉を訪問,孫権も返礼の使者として張温を蜀に送り,さらに劉備の死に対する弔問の使者に馮煕(ふうき)を送る。こうして呉・蜀の協調路線が明確になっていく。この233年からの第二次呉・蜀同盟は今後蜀の滅亡まで続く事になる。
  • さて,222年~223年の行軍は失敗に終わった曹丕だが,呉制圧の夢は捨てておらず,この後も数年に渡り南征を繰り返す。224年の9月には再度,曹丕自ら軍を率いてやってくるが,徐盛の偽の城壁の策によって退却する。これは長江沿いに数百里に渡ってハリボテの城壁を作るという物で,はっきり言って開いた口がふさがりません系の策略である^^;。結局,曹丕は青州・徐州の守将の変更をしただけで許都に戻る。さらに翌年の225年にも大々的な行軍を行うが,この年は大変寒さが厳しく,長江が凍り付き船を進ませる事すらできない。さらに孫韶が部将の高寿(こうじゅ)らに曹丕の退路を奇襲させたため,被害を被る。この年は鄱陽で山越の彭綺(ほうき)が反乱を起こしており,チャンスと言えばチャンスだったのだが,結局曹丕は長期滞在せず,すんなりと許都に戻ってしまった。曹丕は『魏には騎兵部隊が千もあるけど,これでは使いようがない。』とか,『元々,神様が天下を長江で二つに分けているんだなぁ。』とか言ったらしいが,はっきり言って下調べの不足の一言で片付けられてしまいそうな気がする^^;。
  • 225年には,初代丞相の孫邵が死去したために,第二代丞相に顧雍を任命,太常には陳化(ちんか)を指名,内政では顧雍,軍部では陸遜という体制がスタートする。顧雍・陸遜共に揚州の豪族であり,政権のウェイトが揚州の豪族たちに集まり始めているのが分かる。孫権はどうあっても張昭を丞相に指名する気はなかったらしい。張昭は清流派の士人として影響力が大きすぎたのだ。張昭に内政の実権を持たせると,権力の二分化が起きる可能性もあったのである。
  • この頃曁艶(きえん)・張温(ちょうおん)失脚事件というのが起きている。簡単に要約すると,急進的清流派の暴発と言って良いだろう。以前に述べたように,孫権政権は,北方からの参入者(主に清流派の士人。)と揚州の名家と武人たちによって構成させれている。それを儒家の視点で揚州の豪族や武人たち,それに彼らを重宝して使う中央官職にある要人たちをこき下ろしたもんだから,豪族たちの反発を招いて失脚した。張温は曁艶と付き合いが深く,とばっちりを食らった感じである。この事件は孫権陣営の複雑さを物語るものと言えるだろう。
  • さて,この時期曹丕の行軍が大した脅威にならなかったため,孫権は内政に目を向ける余裕が出来たようである。孫権は陸遜・顧雍・張昭らの進言に従い,農地の開墾を推奨したり,刑法の見直しを行っている。また山越討伐も行っており,223年~226年にかけての間は比較的情勢が落ち着いた安息の時期だったと言えるかもしれない。しかしその安息の時期は,226年7月に魏の文帝こと曹丕が死去した事により一変するのである。