【 山越賊の実態 】
- 孫権が当主となってから,一連の離反・反乱騒動がいくつかあったものの,最終的には李術の反乱を制圧したことで,沈静化に向かったと思われる。しかし山越の反乱はそれとは別に頻繁に起きていたらしい。孫権は呉郡に留まり,本拠となる会稽郡には顧雍を任務に付かせて太守の役割を代行させている。おそらく丹陽郡・呉郡の情勢が不安定だったのではないだろうか?
- ここで,今後の大きなキーワードとなる山越について少し考えたいと思う。山越については実際の所どういう存在だったのかよく判っていない。出没地域は揚州と荊州南部になる。ただし荊州南部については異民族という書き方がされる事があるのに対して,揚州中心の山越に関しては,山越賊という表記になる。『族』というとこれは異民族になる。しかし『賊』となると,これは違う。例えば魏書では孫権も賊なのである。つまり政権に対して反乱するものは賊となる。となると山越は越族(元々長江南岸に住んでいた民族)を祖先とはしているものの,後漢末期には漢民族との融和が行われていたのではないだろうか?つまり犯罪者や逃亡者が山越と混じり,アウトローと化した物が山越とも思えるのである。ただし政治的な支配を受けず,山岳地帯に住み,漢の人口には数えられていなかったのではと思われる。後漢書の郡国志では揚州の人口は433万人。単純に比較して豫州の人口はその頃617万人いたのだから,だだっ広い揚州の人口密度は大変低い事になる。(ただし三国時代には中原で戦乱が続いたために江東に避難してくる人が多く,この数字より揚州の人口は増えていると考えられる。)ちなみに荊州は626万人。益州は724万人。荊州は北部が中原に入るので,この人口も理解できるが,益州がここまで多いのは意外かもしれない。益州は平地の部分は確かに少ないものの,古くから漢民族の支配地域だったのである。特に成都周辺の盆地の開発はずいぶんと行われていてようである。それに対して山岳地帯に山越賊が住む揚州では,実際には山越賊まで租税は取れなかったと思われる。漢の場合は中心が北にあったので,長江南岸に関しては,太守を置くことができてそれなりの租税を収集できればそれで十分だったかもしれないが,江東が基盤となる孫権にとっては山越の存在は無視できるものではなかっただろう。
- では山越賊がどういう生活をし,どういう戦い方をしたか?まず生活であるが山岳地帯に住み,本拠がどこにあるのかが不明確だったと思われる。そのため山越賊が平地にでて略奪を働いても,討伐軍は実際には平地に出てきた賊を叩くのが精一杯だったらしい。諸葛恪伝の中に山越の生活について詳しい記述があるので引用したい。
- 『山や渓谷が複雑に入り組む奥地に住む住民(山越)は,平地に出て人口として数えられていない者も多く,武器を持って山野に逃げ,林の中で一生を暮している。逃亡者や悪人どももそこに逃亡している。また山からは銅や鉄が産出するので武器を自給自足する事ができ,武を好む性質で戦いには慣れている。しばしば隙をうかがって略奪を働くため,そのたびに軍を動かしてその本拠を捜すのだが,戦いとなると蜂のごとく集まってきて,敗北すれば鳥のように四散してしまうため,前代(孫策)以来,どうしても支配する事ができなかった。』
- つまり,山越は本拠がどこにあるのかがつかめなかったため,何度も何度も軍を動かして平地に出てきた山越を叩くしかなかったわけである。そのため孫権は各地に軍を分散して置かざるを得ず,この事が孫権が天下統一のための戦いから一歩引いた形で存在させざるを得なくなった主な原因となるのである。赤壁の時も結局動員できた兵数は,周瑜率いる3万人だけであった。孫権を頼って来た劉備も呉の実態を知り,これでは曹操には勝てまいということで,自身は後方に布陣して敗北後の逃亡の事も考慮に入れざるを得なかったわけである。
- 孫策が江東を制圧した時点では,孫策の勢いを恐れて山越の活動も沈静化していた可能性もあるが,孫策死後は混乱に乗じて山越の活動も活発化したのかもしれない。いずれにしても孫権はここでしばらく外征をやめ,内部を固める事にしたらしい。孫権が本格的な行軍を起すのは黄祖討伐まで待つ事になる。 ▲▼