【 関羽挟撃 】
- 217年は孫権にとって,赤壁に続く大きなターニングポイントになる。曹操と和睦した事,そして呉と蜀の同盟の立役者・魯粛が死んだ事。この二つである。赤壁以降217年までの体制は,北方の魏に対して呉と蜀が協力して当たる,という物であった。しかし呉と蜀の間には,荊州所有権問題という一発触発の問題が横たわっており,呉と蜀の同盟は,魯粛-(諸葛瑾)-孔明という細いラインで繋がっていただけであった。その魯粛が死去したことで,呉と蜀の細い糸は絶たれる。208年~217(9)年の第一次呉・蜀同盟の最大の問題点は,孫権と劉備の君主同士間の信頼関係が構築できなかった事だろう。劉備は劉備で孫権を利用した節があるし,孫権もまた,劉備に出し抜かれた事を不信に思っていた。そして孫権は,212年から毎年のように行われた合肥-濡須間の戦いの中で,益の少ない戦いを続ける必要性を感じなくなっていたと思われる。言って見れば,劉備が巴蜀を切り取るために,曹操と孫権が戦ったようなものである。そこで孫権は発想の転換を行い,仇敵として戦ってきた相手である曹操と同盟する。ここに魏・呉同盟対蜀という構図が出来上がった。
- (注)三国雑談「なぜ孫権は魏に臣従したのか? -孫権と魯粛の夢-」で書いた通り。魯粛は決して「呉・蜀同盟維持論者」ではない。荊州・江陵を獲得し、長江流域を支配するためなら、既成概念なんか屁とも思っていない。また孫権を皇帝にするためには、まず王にせねばならず、そのためには「魏に臣従」する必要がある。発想を転換したのでもなんでもなく、「孫権を皇帝にするため・長江流域を悉く支配するため」の方法論をドラスティクに実践したに過ぎない。呂蒙は魯粛の構想を実戦レベルで実行した。周瑜(天下二分)・魯粛(天下三分)・呂蒙(天下二分)なんて、コロコロ方針が変わるわけがないし、変わったならこんなに巧いこと荊州は取れていない。魯粛の方針に沿って、首尾一貫していたから、荊州を確保できたのである。二分・三分なんて言葉に大した意味はない。要は「どうやって長江流域を全て支配するか?」に尽きる。
- 魯粛死後,陸口の駐屯軍司令官となったのは呂蒙である。呂蒙は,たたき上げの純粋軍人であり,魯粛の天下三分策よりも,周瑜の天下二分策に近い思想を持っている。本来,武人という者は,他国との協力策などは思考の中に入ってこないのであろう。さらに,呂蒙はこの頃すでに病魔に犯されていた。呂蒙は関羽討伐のための策略を練り続けており,自分が死ぬ前になんとしても荊州を獲得する策を実行しておきたかったのではないかと思われる。呂蒙伝にある孫権への上奏にも『我々が死んでしまうと機を逃す。』とあり,自分の死を暗示した内容となっている。そして219年,その千載一遇のチャンスがやってくる。関羽が荊州北部の樊城を攻撃に動いたのである。
- しかし,関羽の側でも,217年に孫権が魏と和睦した事は情報として伝わっており,呉の動きに対して警戒は怠っていなかった。だが,呂蒙は病気と称して,建業に戻ってしまう。後任として陸口にやってきた陸遜(りくそん)は,遜った態度で関羽のプライドをくすぐり,油断を誘う。はたして,関羽は守備兵を減らして樊城攻撃の増援をする。その頃,呂蒙は魏と『長江以南の土地は呉の物とする。』という密約を取りつけ,関羽挟撃の体制を整えつつあった。
- 魏の側でも,呉に漁夫の利を独り占めさせるつもりはなかったようで,関羽と孫権を戦わせようと,関羽に孫権が荊州を奪おうしているという情報を横流しする。しかし,関羽は呂蒙・陸遜らが隠密行動で荊州西部に進入した事を把握しておらず,これが曹操の策謀なのか,本当の事なのか判断しかねたようである。そうしているうちに呂蒙は,完全隠密行動で南郡に接近,かねてから関羽と不和状態にあった,公安留守部隊隊長の士仁(しじん・傅士仁という表記もある。)・南郡太守の糜芳(びほう)を降服させる。呂蒙は関羽の捕虜となっていた于禁(うきん)を捕らえると,陸遜と共に,蜀と関羽の連絡路を絶つ。退路を絶たれた関羽は南郡の北の麦城(ばくじょう)に篭城する。関羽は決死の敵中突破を試みるが,前もって逃げ道を遮断していた朱然と潘璋の部隊に捕まり,最後は潘璋の部将である馬忠(ばちゅう)によって関羽親子は首をはねられ,その首は曹操の元に送られた。あくまでも首謀者は曹操という印象を持たせるためであろう。
- しかし,関羽ともあろうものが,あまりにもあっさりと南郡を奪われた感は否めない。もちろん関羽自身の油断もあっただろうが,どうやら荊州の士人たちと関羽の反目という背景があるような気がするのである。潘濬(はんしゅん)は,荊州の士人で関羽死後,呉に仕えた代表格となるが,潘濬だけでなく,荊州の兵たちがまともに呉と戦おうとしなかった事が呂蒙伝にも書かれている。呂蒙は以前から荊州の士人たちと連絡をとって,関羽を討伐する準備を着々と進めていたのではないだろうか?それに呂蒙自身の病気の事があり,この先どれくらい生きていられるかわからんと感じた呂蒙は,魏と結んで関羽を討つ作戦の発動を着手した。そう考える事もできる。孫権はこの荊州の運営には大変気を配り,翌年には,流行病がはやったとして,荊州の租税を全面的に免除している。兎にも角にも,孫権の念願であった荊州併呑はここに成就した。
- その後,曹操は孫権を驃騎将軍・荊州牧・南昌侯に任じる。意外にもこの正式な官職という意味では,孫権はそれ以前はただの会稽太守であった。(徐州牧というのは劉備と孫権の間の取り決めと思われる。)州の牧という立場は,実際の統治という面でも大きな効果があったようで,劉備も以前にもらった豫州牧という地位を大事にしているし,呂布なんかもそうである。孫権は,返礼に校尉の梁寓(りょうぐう)を使者に立て献上物を捧げ,王惇(おうとん)に馬を買い入れさせる。これまた意外な事に,孫権が北方から馬を買っているという場面は多い。例えば公孫淵の時もそうだし,また呂蒙なども戦場で魏の騎馬隊の馬を強奪する事に留意している。南船北馬という言葉通り,北方の魏にとって,南方で戦う時には水上戦の能力で問題があったし,逆に南方の孫権にとっては,中原で戦うには騎馬戦の能力で問題があったのだろう。それに加え,以前に捕虜にした朱光らを魏に帰還させている。
- さて,荊州制圧の立役者・呂蒙は,荊州制圧直後に病気が重くなり,死去する。関羽の祟りとか,そういう非現実的な話もあるが,呂蒙は自分の寿命が尽きる前に,荊州制圧を実行したというのが,正しいような気がする。さらに翌年の220年には,一代の巨人・曹操が没する。 ▲▼