【 呂壱事件 】
  • 一般に,孫権の終盤の失策として挙げられるものは三つある。遼東情勢への介入・呂壱(りょいつ)事件・皇太子問題である。そのうち遼東情勢への介入は孫権が天下をねらうための方策であり,言ってみれば孔明の北伐失敗と同等のものと思っているので,ここでは失策としては扱わない。むしろ残りの二つが重要なのである。
  • 全ての事の発端は,孫慮と孫登の死去に発すると考えている。孫権の知的衰退はこの辺からスタートするのである。孫慮は孫権の次男であり,孫権は非常に孫慮を評価していた。孫権は本来,子孫を王とすることには否定的だったのだが,孫慮には二十歳に満たない頃から,鎮軍大将軍に任命している。しかしその孫慮は232年に20才で死去した。孫慮が死去すると,孫権は悲しみのため,食事も十分に取らなかったという。
  • さらに,皇太子の孫登である。孫権は孫登に武昌に駐屯させ,荊州方面の政治を任せるほどに期待していた。しかしその孫登も241年に呉を憂う遺書を残して死去する。この孫登の死去は,孫権にとっても呉にとっても最大の損失だっただろう。孫登伝を読んでも,彼が孫権の後を継いでいれば・・・という気持ちを禁じ得ない。
  • これら,孫権が期待してやまなかった息子たちの死のあたりから,孫権の失策が目立つ様になる。語弊があるかもしれないが,日本で言うと,秀吉が側面から彼を支えた弟の秀長の死去と,待ちに待った息子の秀頼の誕生から,知的衰退を見せ,官僚の石田三成を信任して,有力大名の家康を関東に追いやった事とよく似ている様な気がするのである。それと,もう一つ。孫権の施策に対して,常に是々非々で苦言を言い続けた張昭が,すでに他界していた事。これも大きいだろう。呂壱事件が起きた頃,孫権に直接,諌言を行った家臣がほとんどいなかった事が,呉書の各記述から分かる。長年に渡って呉を切り盛りし,皇帝にまでなった孫権に苦言を言えるのは,張昭くらいだったのである。口やかましい老人だったが,そういう意味では呉にとって張昭の死は痛手だったのだ。
  • さて,呂壱である。彼の官職は中書典校(宮中において,文書行政の監査を行う係)であった。この官職は政治や軍部への実権はなく,いわば官僚と言って良い。古今東西,官僚が力を持ちすぎる政権はろくな事がないのだが,彼もまた官僚としての役目を逸脱している人物だった。公平・公正のみが重要な官僚であるにも関わらず,出世欲にかられ,有ること無いことを上奏して重要官職にある人物たちを弾劾したのである。以前にも曁艶が有力豪族とその擁護者たちを弾劾した事件はあるが,曁艶の場合は,儒の思想を現実無視で突き進めた結果と言って良い。その意味ではまだ曁艶は弁解の余地はあるのだが,呂壱の場合は弁解の余地がない。ただの野心と自分がすごい権限を持っているという勘違いに駆られただけである。
  • 問題はそういう小者の官僚を孫権が信任してしまった事である。孫権の知的衰退と言ってしまって良いのだが,少し孫権の弁護をすると,おそらく,孫権の脳裏に魏で強大な権力を持つに至った司馬懿の一件があるのではないかという点であろうか?君主にとって,多大な功績を持つ家臣たちが権力を持ちすぎるのは確かに良いことではない。孫権が呂壱を信任した背景にもそういう点はあるような気がする。つまり,有力豪族への押さえ役としての役割である。しかし顧雍にしても朱拠にしても,呉の場合は有力家臣に野心があったかというと,彼らに野心があったとはとても思えない。
    • (注)孫家の守り人として?なんとか呂壱事件の弁明をしてやりたい所だが、この事件だけはダメ。無理w。この事件について渡邉義浩氏は「皇帝権力強化のための名士譴責」と捉えている(真三国志二巻「君主の権力強化が招いた名士層の遊離」より。残念ながらネット上では見つからず。)。しかし、これは非常に単純明快な「社長になった人が陥りがちな重臣暗疑と側近寵用」としか言いようがない。というのも被害にあった人・被害にあった人を弁明している人が北方系・呉郡呉県系・その他系入り乱れていて、そこに統一性がないからだ。これを「皇帝権力強化のための名士譴責」としてとらえることは難しい。もし孫権にその気があるなら、呉郡呉県系豪族に的を絞って、北方系・その他系の人材との乖離を図るべきだ。それで呉郡呉県系豪族に傾いた豪族のパワーバランスを是正し、孫権の権力強化につながる。しかし、潘濬・諸葛瑾ら北方系・その他系の代表格も顧雍・朱拠の援護に回っており、結局、孫権と重臣の間に溝ができたという・・なんの意味もない結果になっている。よって、この事件に孫権のなんらかの政治的目的を読み取ることは難しい。あったらとしたら相当に稚拙。だからたぶん、なかった。ただ単に呂壱のいう事を真に受けただけw。一応、弁明を試みるなら、「呂壱を寵用したと言っても、実際にこの事件で失脚した人はいない」ことと、「反省した」ことくらいw
  • 呂壱を信任する孫権に対して,孫登は必死に諫めるが,孫権は一向に気にしない。最後は潘濬・陸遜らの説得により,孫権もやっと自分の過ちに気付くのだが,その頃には,家臣一同,孫権を信用できなくなってしまっていた。孫権が『私に間違えがあったら,正してほしい』と有力家臣たちに問いただしても,諸葛瑾・歩隲・朱然・呂岱らは『私は軍部所属なので,陸遜・潘濬に聞いてください』と,逃げを打つし,陸遜・潘濬もどうにも歯切れの悪い事しか言わない。愕然としたのは孫権である。孫権と家臣の間にいつの間にか大きな溝ができてしまっていたのである。皇帝という巨大な権力は,どうも自分の生きる道を誤らせる誘惑があるらしい。結局,この時は孫権が自己反省を行ったため,大きな亀裂は発生しない。が,孫権の知的衰退は明らかであった。この呂壱事件の3年後の241年,皇太子の孫登が死去する。同年,孫権を支え続けた宿将・諸葛瑾も死去している。