【 孫権の人間像 】
  • 孫権は陽羨県の令に任じられた後,朱治に推挙され,朝廷(曹操)から奉義校尉代行(ほうぎこうい)の官位を与えられる。曹操から返礼で送られて来た使者の劉琬は『孫家の人間はみな優秀だが,短命だ。だが,孫権は人並み外れた風貌を持ち,骨格も非凡で高貴な位に上る相がある。しかも長寿だろう。』と言う。いささか作られた話という気がしないでもないが,孫権は父孫堅や兄孫策とはちょっと違った雰囲気を持っていたのかもしれない。孫堅・孫策はよく似ており,まさに親子という感じなのだが,孫権はちょっと違う感じがするのである。
  • 孫堅・孫策は即断即決で,思い立ったらすぐ行動というタイプである。が,孫権の場合,結構決断には時間をかける場合が多い。赤壁でも降服か抗戦か悩みに悩みぬく姿が見て取れる。おそらく孫策なら即決で抗戦だろう。悩むなど考えられないのである。逆に,孫権は,部下の能力を最大限に発揮させるという意味では一枚上かもしれない。もちろん孫堅も孫策も見事に部下の掌握はできていたが,どちらかというと部下の能力を自分の能力に吸収するような感じで,結果として孫堅・孫策がダントツで目立つ。部下の行動はあくまで孫堅・孫策の優秀さに直結していくのである。この辺は曹操の感じに近い。しかし,孫権の場合ちょっと違う。孫権より,部下であるはずの周瑜や陸遜の方が活躍が目立つのである。これは部下であるはずの関羽や張飛・孔明の方が目立つ劉備にむしろ近い。
  • この差はなんだろうかと考えて見ると,最終的には曹操・孫堅・孫策は自身が優秀な武将だったのに対して,孫権・劉備は自身の軍事能力はさほどでなかったため,部下を信任して戦闘を代行させるしかなかったという点での違いである。劉備も孫権も自身が軍を率いた場合,手ひどい敗退を食らう事が多いのである。こういうタイプの君主は,常に部下の離反が潜在的に脅威としてあったはずである。軍事功績を挙げすぎた部下の扱いをどうするか?これは孫権に与えられた命題といってよい。劉備は古くから侠の精神で結ばれていた関羽・張飛がいたので,荊州を関羽に任せる事ができた。しかし孫権の場合は周瑜・陸遜らとは,劉備と関羽の関係ような精神的な強いつながりで結ばれたものではなく,あくまで君主と司令官代理という関係である。だから陸遜も最後は不遇の死を迎えてしまう。(そう考えれば関羽も戦死であり,こういう関係は長続きしないのかもしれません。長続きしてしまうと最終的には司馬懿のように,司令官代理に立場を奪われる可能性大ですし。)だから孫権の場合,その時々の司令官代理との思想や立場的バランスの上を微妙な政治感覚で切りぬけて行くという性格がどうしてもクローズアップされてくるわけです。
  • また,孫権自身には建国の戦いがなく,孫策が切り開いた土地を受け継いだという性格をもっています。そのため初期の孫権はあまり君主として強い立場ではなく,これまた君主として部下をどう扱って行くかという問題を抱えています。だから初期の孫権は気を配りすぎではないかというほど,自国の武将たちに対して気を配ります。そういった背景もあり,君主としての孫権は,孫権をめぐる状況の中で次第に作られていき,成長していったと言えるかもしれません。早熟のようなイメージを受けますが,孫権の業績を見ると,その中盤~後半が最も優れており,(終盤は老害がでます。)その初期は,孫権は色々と決断の失敗をしています。赤壁前後の呉は一大飛躍のチャンスでしたが,孫権の判断ミスでチャンスを逃してしまったというイメージが拭い去れないのです。ですから私の孫権評は彼は成長型君主だったというものです。ただし終盤は老いて判断ミスをします。元々孫権自身がもっている資質は決して曹操や孫策のように生まれ持っていたものではなく,苦労と気配りを続けるうちに成長したという,劉備に近い評価が当てはまるように思います。さらに付け加えるならば,孫権はその柔軟性という意味では劉備より評価されてよいとも思っています。ただこの辺は人によって考えが違うでしょう。少なくとも正義という意味では孫権は非道です。当時の儒家たちにも評判は良くありません。ただ正義で国は養えませんから,君主としては曹操には及ばなくとも,一流であったと言ってよいと思っています。もっと言うと,孫権って曹操や孫策に比べて身近に感じられる人物です。失敗もあり,悩む姿があり,部下の病気に右往左往する姿あり,敗戦して命からがら逃げる姿あり,泥酔して暴言・暴挙に出て反省を強いられる姿あり・・・,なんとも人間っぽいではありませんか^^;。
  • さて,孫権は199年~200年にかけての劉勲・黄祖討伐の一連の軍事行動に武将として参加している。おそらくこれが孫権の本格的な初陣であろう。特に目覚しい働きはなかったらしく,ただ参加したという記述しかない。この辺を見て,孫策は(ああ,権は武将としての才能はそんなでもないなぁ。)と思ったのかもしれない。逆に注の江表伝には計謀を練る時には常に孫権が参加したとあり,そういった政治的能力・外交能力を評価していたのかもしれません。
    • (注)本格的な初陣はこの時だろうが、よくよく孫権伝を読んでいくと、すでに陽羨県令の頃から、行軍には参加している。陽羨県は呉郡であるが、周泰が孫権をかばって傷を負ったという宣城は丹陽の東側にあたり、おそらく太史慈や祖郎が割拠していた「不統治」の県にある。つまり孫権は奉義校尉代行として15歳にして、太史慈・祖郎ら反乱勢力討伐の一端を担っている。数少ない孫家本流として期待されていることが分かる。