【 李術の反乱 】
- 李術の反乱を書く前に,曹操の事を述べたいと思う。曹操は官渡の戦いに袁紹の補給線を叩く事で勝利。名実共に中原の覇者となった。中原の覇者ということは中国の覇者と言う事である。当然の事ながら,劉備は言うに及ばず,劉表・孫権・劉璋・馬騰・張魯それに袁紹死後,分裂した袁譚・袁尚らの勢力は曹操とは比べ物にならない。曹操は袁紹に勝利し,恐れていた孫策が死去した時点で天下人になったと言って良いだろう。今更ながら官渡の時期に孫策が死去した事で,天下の情勢から一歩も二歩も孫家は出遅れてしまった。孫家の歴史というのは,戦いで前途を切り開きながらも,ここぞという時の当主の死去でまた振りだしに戻るという歴史である。孫堅・孫策・孫権と英傑が三代続いたというのはほとんど奇跡に近い。袁紹・劉表・劉焉らを見ても先代が優れていても,その子孫は凡庸で次代に国が奪われるというのがこの時代は普通である。
- (注)えーとw。さすがに孫策買いかぶりすぎ(汗)。孫策の死去は孫呉にとっては痛手だが、曹操にとって袁紹を倒したこととは比較にならない。
- さて,その曹操である。官渡の戦いの後,曹操は,孫策の死に乗じて孫権を討とうという考えを持っていたというのである。袁譚・袁尚が残っているのに南下はないだろう?という気はするが,情勢を考えると袁譚と袁尚は内部分裂を起しており,その機会に南下して,孫家を先に潰しておこうという判断もありえない話ではない。実際に曹操による孫家の部下の切り崩しは行われている。大規模な南下はないとしても,孫権と対立し,その勢力を削ぐ方向を選んだとしてもおかしくはない。
- しかし,そこで重要な役割を果たした人物がいる。張昭と並ぶ文官の代表格・張紘である。張紘は孫策死亡の時期,許都にいた。張紘は曹操に大変気に入られ,侍御史(宮中の不正取締り役)の官職を与えられていた。張紘は曹操の南下を防ぐために尽力することになる。張紘は孫家は漢王朝に忠義を尽くしている点と,(許都襲撃計画は実行されていないのだから,名目上は孫策は漢王朝に反逆していない。また,孫堅が皇帝の墓を直したという点も大きいだろう。)当主の死去に乗じるのは道義に劣るという点から,孫権を討つよりも,この機会に逆に恩義を売っておけばその後が楽じゃないか?という進言をしているのである。結局,まだ北方に袁譚・袁煕がおり,その背後に烏丸族がいる以上,孫権とは対立しない方がいいだろうということで,孫権との対立は見送られたようである。曹操は孫権に討虜将軍・会稽太守の官位を与え,張紘には,孫権の帰順を勧めさせるのに使えるという判断から,張紘を会稽郡東部都尉にして江東に戻す。(これには張紘の希望もあったようである。)
- (注)もし曹操が南下して孫呉を潰すとなると、当時の孫呉勢力の状況を考えれば、あっという間に瓦解するだろうが、実際、当時の孫権は曹操(漢王朝)に対立するような行動は取っていない。南下にはそれ相応の理由が必要だが、難癖をつけない限り、それは無理。張紘の果した役割は非常に大きいが、別に曹操が張紘に言いくるめられたという類ではなく、冷静に考えればそれはないね、という範疇の話。
- そこで,廬江太守・李術の話になる。李術は孫策死後,呉からの亡命者を受け入れ,孫権に反逆する姿勢を見せた。はっきりと断言は出来ないが,李術は曹操を頼っての反乱だったと思われるのである。それは孫権が曹操に送った手紙から読める部分がある。孫権は李術が前に曹操が指名した揚州刺史・厳象を殺害した事に触れ,自分を推挙してくれた厳象の仇を討つためでもあるから,李術が救援を求めても応じないでほしいと言っている。曹操は孫権への対応を,対立から懐柔へと方針変更をしていたのであり,李術の読みは外れた格好となっていた。孫権は孫河らと共に皖城を攻撃。李術は曹操の救援を信じて篭城戦を選んだが,曹操の援軍は来ず,食料が尽き果てて落城する。李術はさらし首となり,孫権は李術の元に行った兵・民衆を長江南岸に強制移住させた。
- この李術の反乱が悲惨な末路をたどった事で,取りあえず孫策死後の一連の離反・反乱の危機は回避できた。しかし江東はまだまだ情勢不安定で,孫権の苦悩は続くのである。取りあえず,孫権は新しい体制作りをする必要があった。 ▲▼