【 魏呉激突(後半) 】
- 214年から217年にかけての魏・呉の激突は,熾烈を極める。まず,214年の皖城攻撃。皖城は廬江の首都であり,廬江太守の朱光(しゅこう)がいた。朱光の役目は廬江を開墾して屯田兵を根付かせる事にある。これを続けさせる事は,曹操の呉侵略の基盤を作らせるようなものであり,孫権としても捨て置けるものではなかった。そこで魯粛・甘寧・呂蒙・凌統らに命じて皖城を攻撃させる。甘寧・呂蒙は速攻で皖城を落とす事に成功。太守の朱光と参軍の董和(とうわ)を捕虜とした。孫権は呂蒙を廬江太守として,廬江に屯田を敷く。
- 215の孫権の合肥攻撃は,孫権自ら軍を率いての大規模なものだった。この行軍は荊州借用問題の一応の解決を見た事で,余勢でもって軍を合肥に進めたものである。この時,合肥を守備する張遼・李典・楽進の兵は7000人程度であり,チャンスであった。が,歴戦の張遼は,孫権が包囲体制に入る前に精鋭の騎馬部隊を率いて孫権軍を奇襲。孫権軍の出鼻を挫く。結局,合肥城の防御力と,緒戦で破れた士気の低下のため,十日ほど包囲しただけで退却。しかもその退却路で,孫権の本陣が薄くなった所を張遼が再度奇襲,孫権軍はさんざんに叩かれる。この時の追撃戦では孫権は張遼とニアミスして,すんでの所で命を落としかける所だった。凌統・韓当・呂蒙・甘寧・蒋欽・陳武らの奮戦と,側仕えの谷利(こくり)の機転により,なんとか孫権は逃亡に成功したものの,寡兵でもって孫権の大軍が良い様にやられた事は,大打撃である。さらに陳武がこの乱戦の中,命を落としている。この戦いの結果を見るに,孫権は完全に退却中に襲われるという計算をしておらず無防備だった。このあたり孫権が軍を率いる大将としては,二流と言わざるを得ない点である。
- この大敗の後,216年には曹操自ら軍を率いて濡須を攻撃してくる。今度の曹操側の行軍は赤壁以来の大軍での攻撃である。曹操はこの行軍の前に兵の観閲を行い,士気を揚げ,居巣(きょそう)に陣取る。更に曹操は正面だけでなく,裏からも孫権に揺さぶりを懸ける。曹操は山越賊の領主たちに印綬を渡し,内部から反乱をおこさせた。鄱陽の尤突(ゆうとつ)・それに丹陽の山越も反乱を起こす。いわばこれは孫権に対するボティーブローであり,じわじわと効いて来る効果的な作戦である。赤壁の時と違い,明らかに曹操は呉を研究していた。
- さらに,いざ開戦という直前に,董襲が突風により船が転覆し,死亡する。董襲は黄祖討伐の立役者であり,その董襲が戦う前に死亡した事は,濡須の守備軍の士気への影響も計り知れなかった。その後,戦端は開かれ,呉側には甘寧の夜襲成功や呂蒙の防御塁による敵の撃退など,部分的な勝利はあったものの,戦力差から来る絶対的不利は如何ともし難くなってきた。そこで孫権は,対峙する事数ヶ月で,都尉の徐詳(じょしょう)に命じて降服を申し込ませる。この記述は孫権伝には,まるで大した事ではないかのようにひっそりと書かれている。しかも勝利側の曹操伝には孫権は退却した,としかない。ということは降服=魏の支配を受け入れた,という事ではないようである。あれほど赤壁の時には,降服か抗戦かで揉めたのに,この降服劇は揉めたとかそういう感じの物ではない。つまり孫権の方も魏の内情からして,長江を渡って攻撃してくることはないと計算し,長江北岸の所有権を巡って,これ以上戦っても両軍益が少ないから,手を引きませんか?という外交が行われたのではないだろうか?それに曹操も呼応した。いずれ曹操も軍を北に帰さなくてはならず,どうせ長江を渡っての攻撃はできないのなら,いたちごっこはやめた方がいいと考えたのではないかと思われる。いずれ奪われる上に,収益がほとんどない長江北岸を巡って国力を疲弊し合う必要はなかったのだ。孫権は形の上では魏に臣従する事になった。と言っても孫権が租税を払うわけでもなかったようで,たかだか象とか真珠とかめずらしい珍品を贈った程度である。
- この突然の降服劇のあたりから,孫権の人を食った外交戦略が見え始める。赤壁直後ではあれほど,曹操・劉備に翻弄されていた孫権だが,この後は二国の間を上手に渡り合い,決して無駄をしないという辛辣なまでの鋭さを増して行くのである。 ▲▼
- (注)長くなったので、注を三国雑談「なぜ孫権は魏に臣従したのか? -孫権と魯粛の夢-」にアップしました。