【 魏呉激突最終章 】
- 230年代に入ると,魏呉の激突は正面衝突ではなく,策略や計略を用いたものが多くなる。これは両国共に決め手を欠いたためであろう。230年には,魏は隠藩(いんはん)を埋伏の毒として呉の内部分裂を誘うという,手の込んだ策略を用いて来るし,陸遜は満寵を合肥から誘い出すために廬江に軍を進めるフリをしたり,江夏太守の逯式と文休の確執をついて逯式を罷免に追い込む策略を用いている。237年には,朱然が江夏を包囲するが,胡質の攻撃で退却,さらに魏は廬江郡主簿の呂習(りょしゅう)に偽の投降をさせる策略に出るが,朱桓に見破られている。また全琮が六安を攻撃するが成果を得られずに引いている。
- 241年には,239年に曹叡が死去した事を受けての行軍を行っている。この時期は魏の実権が弱まっている頃であり,呉・蜀共に最後のチャンスと言って良い。蜀はすでに孔明亡き後であり,衰退の時期にあったが,呉の方は孫権が健在であり,零陵太守の殷礼(いんれい)は,ここで国運を賭けて魏に攻撃をかけるべきだと進言を行っている。確かにここが呉の天下平定の最後のチャンスだったかもしれない。しかし殷礼の言うように,国を挙げて強き者も弱き者も全て動員して総攻撃をかけて,もし破れることがあれば,それは呉の滅亡を意味する。結局,孫権は全琮に淮陰を,諸葛恪に六安を,朱然・朱異に樊城を,諸葛瑾に粗中を攻撃させるという,従来の大規模行軍のやり方での攻撃を行った。なぜかこの行軍の中に陸遜の名前がない。この頃すでに,孫権と陸遜の関係は冷えつつあったのかもしれない。しかしこのやり方だと,結局,魏の大軍が援護に来れば引かざるを得ず,この時も司馬懿が樊城に救援に来たために全軍退却している。
- その後も,243年には諸葛恪が六安に進み,魏の部将である謝順(しゃじゅん)を破り,長江北岸の住民を移住させるという戦果を挙げたりしているが,所詮これは小さな戦果であり根本的に解決にはならない。諸葛恪はその後も廬江・皖城で屯田を行い,寿春攻略の策略を練るが,孫権はそういった作戦を許可しない。逆に諸葛恪を柴桑に移らせて,軽はずみな行軍を行わせないようにしている。
- 245年には,魏からの降将である馬茂(ばぼう)が謀反を起こす。馬茂は朱貞(しゅてい)・虞欽(ぐきん)・朱志(しゅし)らと共に孫権暗殺の計画を練るが,事前に事が発覚して失敗に終わっている。246年は,朱然が粗中に進軍,勝利するが結局最後は退却している。247年には,諸葛壱(しょかついつ)に偽の投降をさせ,魏の鎮東将軍・諸葛誕をおびき寄せようとするが,諸葛誕に看破されている。250年には,魏の文欽が寝返ったふりをして,朱異らをおびき寄せようとするが,朱異が慎重に行動したため,この計画も無駄に終わった。同年,魏は呉が皇太子問題で分裂している事から,州泰が巫・秭帰に,王基が夷陵に,王昶が陵に攻撃をかけてくるが,戴烈(たいれつ)と陸凱(りくがい)がこれを防いでいる。また,孫権は軍勢を率いて,魏の南進のための通路を水没させている。
- 230年以降は,まともな行軍は241年の進軍のみと言って良いだろう。その他はいずれも小規模な衝突に過ぎず,しかもそのほとんどが,偽の降伏で相手をおびき寄せて,あわよくば叩いてやろうという類のものである。遼東情勢の介入失敗により,魏を三方から囲むという考えは水泡に帰して,同盟国の蜀は人材難がいよいよ胸突き八丁にまで達している。この状態で,思い切った行軍は無理だったのかもしれない。いずれにしても孫権が天下をねらう戦略が袋小路に突入した時期と言って良いだろう。孫権の衰退というのは,太子の孫登の死と,張昭・顧雍・諸葛瑾ら呉を支えた人材の死去,それに伴う天下をねらう覇気の衰退から始まるものではないだろうか? ▲▼