【 夷陵の戦い 】
  • 220年から221年にかけての曹丕と劉備の皇帝宣誓の動きが一段落した後,劉備が一番始めに行った事は呉への遠征であった。実際に劉備が呉への遠征軍を起したのは221年の7月とある。それから夷陵で劉備が敗退するのは222年6月までの期間であるから,劉備と孫権は夷陵付近で約1年近く対峙していた事になる。
  • 時間の経過を追っていく。
    221年7月に劉備は呉遠征の軍を起すが,その前に蜀の宿将である張飛が部下の張達(ちょうたつ)と范彊(はんきょう)によって殺害され,張達と范彊は呉に逃亡するという事件が起きる。また孫権は,諸葛瑾を使者に立てて,和睦を請うが劉備は受けつけない。劉備は呉班・馮習(ふうしゅう)らに軍を率いらせ,巫(ふ)・秭帰(しき)に駐屯する李異(りい)・劉阿(りゅうあ)の軍を攻撃,これを撃退する。巫・秭帰は南北を山脈に囲まれた長江流域であり,蜀と荊州を結ぶ細い通路に当たる。まずは荊州への出入り口は劉備が制した。その後,劉備本人も秭帰に布陣,水軍部隊(呉班・陳式が指揮)を夷陵に駐屯させ,陸遜率いる呉軍と長江を挟んで対峙する。一方,孫権は魏への臣従方針を固め,北方からの二面攻撃の危険性を排除する。そこまでが221年の流れである。221年の両軍の動きは劉備側が積極的に軍を進め,陸遜側は持久戦の構えである。これは蜀軍は関羽の弔い合戦と士気が高く,この時点で正面衝突するのは不利と陸遜が読んだからであろう。
  • 222年に入ると,劉備は兵の分散を始める。まず劉備の本陣を猇亭に進め,馬良を使者として武陵の五渓(ごけい)の異民族である沙摩柯(しゃまか)らを手懐ける。これは呉を攻撃する場合,常套手段と言ってよい作戦であり,有効な策である。さらに,黄権を夷陵に進める。この時点で劉備軍の主力は夷道・猇亭・夷陵の三つに分かれている。さらに劉備は補給路の確保のために長江沿いに陣営を点在させた。これは曹丕をもって『劉備は戦というものが分かっていない。』と言わせた愚策という定説になっているが,少なくとも劉備は曹丕なんぞよりも,よっぽど歴戦の武将である。これは陸遜が徹底した持久策を用いた結果であり,持久戦となった以上,劉備も補給線の確保に兵を割かざるを得なくなったと思われる。むしろ,劉備の敗因は陸遜伝に見られるように,水陸両面からの侵攻を諦め,劉備軍が全て陸上にあった点にあるのかもしれない。かくして,陸遜の反攻の条件は整った。
  • 222年の六月から,陸遜の猛反撃が始まる。陸遜は始め,劉備軍の一陣営を攻めたとある。つまり陸遜は水上から急行して,劉備の本陣でなく,背後の補給線をつなぐ陣地を火攻めでもって攻撃していったようである。後方を遮断された劉備軍は,さんざんに打ち破られる。張南・馮習・沙摩柯らは戦死,杜路・劉寧らは投降する。劉備は馬鞍山に登り陣を敷くが,陸遜は四方から総攻撃をかけ,劉備は大敗を喫する。さらに武陵で異民族への使者となっていた馬良が死去,殿軍を務めた傅肜(ふよう)は戦死する。さらに先行していた黄権は退路を遮断され,やむにやまれず魏へ投降する。三国時代の戦いで,ここまで将官級の人材に被害が出た例は極めて珍しい。これは陸遜が後方を遮断した事,黄権が出陣前に上奏したように,長江を下る進軍はたやすいが,遡る退却は難しいという点があっただろう。さらに水上は陸遜が抑えていたので,劉備軍は退路が全くなかったのであろう。陸遜の完全勝利である。
  • 劉備は白帝城に逃亡する。ここで徐盛・潘璋・宋謙らは白帝城に攻撃をかけたいと願い出るが,陸遜は進軍せず,荊州に留まる。さらにここで孫権も白帝城にいる劉備に和睦を申し込む。普通和睦を申し込むのは敗北側なのであるが,なんと勝者であるはずの孫権からの申し込みである。実はその頃すでに魏軍の不穏な動きが伝わっていたのである。