【 合肥新城を巡る攻防 】
- 皇帝となった孫権が行った事は大きく分けて四つになる。一つ目は山越の討伐,二つ目は合肥城・合肥新城の攻略,三つ目は台湾・日本捜し^^;,そして四つ目が遼東紛争への介入である。
- まず,山越の討伐は断続的に行われているのだが,231年には武陵の異民族の討伐を行っている。武陵を中心とする荊州南部の山越は,揚州の山越とと違い明らかに異民族である。この辺りは五渓(ごけい)と呼ばれ,複雑な山脈地帯に複数の異民族が住んでいた。孫権は潘濬・呂岱に命じてこれらの地域の制圧を行わせている。この時は5万という数の軍を動員しており,かなり大々的に行われた物だった。その後も山越の反乱の鎮圧は継続的に行われている。
- 次に合肥城・合肥新城の攻略である。石亭の戦いに敗た曹休が死去したあと,後任として赴任したのは満寵であった。満寵は,演義や光栄の三国志シリーズのイメージでは軍師(しかもどちらかと言えば二流。)という感じだが,彼は司令官としても優秀であり,関羽の攻撃にも一歩も引かなかった歴戦の名将と言えるだろう。彼が損したのは蜀方面ではなく,呉方面の司令官だったからである^^;。蜀方面の司令官だったら郝昭くらいの評価は得ていただろう。満寵は230年頃から毎年のように行われた孫権の合肥遠征をことごとく阻止した。230年の最初の遠征では孫権の偽の退却を看破して攻撃を断念させている。翌年の231年には,孫権は孫布(そんふ)に偽の投降をさせ,揚州刺史・王陵と揚州方面軍司令官・満寵の確執を突くが,これも結局,満寵が看破,作戦は未発に終わる。続いて満寵は233年には合肥城の後方に新しく合肥新城を築く。これは合肥城が長年の攻防の末に老朽化した事と,呉の合肥城攻略の研究がされ守りにくくなったからである。魏ではそれでは後退したイメージが付くと新城建築に否定的な意見もあったが,満寵はイメージなんかより実利の方が大事だとして新城建築を重ねて要求,結局合肥新城の建築は受諾された。この合肥新城の攻略は至難の技となる。合肥城の場合は水路から一気に攻める事が可能だったが,合肥新城の場合は陸に上がって進まねばならず,退路を絶たれる心配が常につきまとう。元々兵力的には魏との格差は歴然であり,今後孫権は合肥新城を攻めるものの,思いきった長期攻撃はさけるようになる。233年には孫権自ら合肥新城に,全琮に六安(合肥の西方)を攻めさせるが,結局戦果を挙げることができずに退却している。
- 続いて,234年には十万の軍で合肥新城を攻撃する。この攻撃は蜀の第五次北伐との共同作戦である。孫権は同時に陸遜・諸葛瑾を荊州北部に,孫韶(そんしょう)・張承(ちょうしょう)を淮陰に軍を進ませる。これは合肥・徐州・荊州の三箇所からの進軍であり,孫権としては最大級の大規模行軍である。この行軍は魏は孔明の北伐に掛かりきりになるだろうと読んでの行軍だったが,意外にも曹叡は司馬懿を蜀方面への増援にし,自らが水軍を率いて合肥に出向いたのである。結局孫権は曹叡が到着する前に退却した。それに合わせて孫韶・陸遜も退却している。
- この合肥新城をめぐる攻防を見ると,孫権が魏側の隙を見つけて攻撃しようとはするものの,魏との国力差により,かなり厳しい戦いを強いられていたと言う事が分かる。呉と蜀は国力で魏に劣るため,少しでも魏の勢力を削がなくてはジリ貧だったのだが,孫権はあくまで大敗を喫する可能性を無視して攻撃を続ける事はしなかった。これは孔明が自分の死をかけて北伐を遂行したのとは異なる。孔明の場合,荊州と益州を取るという当初の計画が破綻したため,魏の勢力を削ぐには漢中から長安方面に出るしか策がなかった。そのため,人材の不足を自らが奮迅して強引に補い,決死の攻撃を続けた感がある。またその無謀な攻撃こそが蜀漢の正義の旗印でもあった。しかし孫権の場合,どちらかというと魏には正面衝突では勝てないと踏んで,背後からの搦め手によって魏を叩こうとしていた感がある。だから孫権は多少ポイントがずれていても,魏の勢力を削ぐ可能性を秘めていることには積極的に介入していく事になる。 ▲▼