【 黄祖討伐 】
  • 孫策死後,しばらく軍を動かさず体制固めに終始していた孫権だが,ついに初めての本格的な軍事行動を起す。黄祖の討伐である。黄祖は父孫堅以来の仇敵であり,また劉表の揚州側の防衛隊長でもあった。まずは黄祖を討たない限り,荊州方面に勢力を広げることは不可能だったのである。それに黄祖はしばしば軍を動かし豫章・盧陵に入り略奪を行っていた。
  • まず最初の黄祖攻撃は203年のことである。孫権軍は緒戦で黄祖軍を打ち破り,凌操を先鋒として,そのまま追撃に入った。しかしここで黄祖軍のしんがり部隊の思わぬ奮戦に会い,凌操が戦死するという予想外の痛手を負う。この時,黄祖軍のしんがりを務めた武将,それが甘寧である。さらに豫章郡の山越賊が再び動き出したため,これ以上の追撃ができなくなり,やむを得ず軍を返すことになる。孫権は呂範に鄱陽・程普に楽安を平定させ,韓当・周泰・呂蒙らを政情不安定な県の令として豫章郡の治安維持に務めさせた。
    • (注)孫策が死去したのが200年で、孫権が最初の行軍を起こしたのが203年。ここでも「三年の喪」というルールが生きている。
  • 最初の行軍では,大した戦果も挙げられなかった孫権であったが,この戦いの後,孫権軍の追撃を阻止した武将である甘寧が孫権に投降してくる。『呉書』では甘寧は元々,劉表から離れ,孫権に身を寄せるつもりだったが,黄祖に阻まれて孫権の元に行く事ができずにいるうちに,孫権の黄祖討伐が始まったと記述されている。しかしそれなら孫権の黄祖討伐の時こそ,投降のチャンスであったはずで,どうもそれはおかしい気がする。実際のところはどうなのだろうか?孫権の引き抜きという気がしないでもない。甘寧もまた魯粛と同様に,荊州を取り巴蜀を奪い曹操に対抗すべきという考えを持った人物である。しかも彼は第一線級の猛将であった。
  • 第一回目の黄祖討伐の後,再び江東の情勢が不安定となる。沈友(しんたん)・盛憲(せいけん)殺害事件と孫河・孫翊暗殺事件である。沈友は孫権が招いた士人であるが,どうやら謀反騒ぎがあって,孫権に誅殺されたようである。盛憲も漢王朝から指名された元呉郡太守であり,盛憲も沈友と同じく,孫権に対する反乱因子だったのだろう。彼らは清流派の人材であり,孫権はやがて朝廷(曹操)に背くであろうという事で,謀反さわぎが起きたようである。このあたり周瑜・魯粛・甘寧ら武断派と張昭ら清流派の考えの対立の一端が見え隠れしているようである。沈友・盛憲は親曹操派の最右翼だったのだろう。孫河・孫翊の暗殺事件もそれが尾を引いているようである。孫河・孫翊暗殺の実行犯である媛覧(きらん)と戴員(たいうん)は,元々盛憲に推挙された人材であり,孫策の時代には山奥に隠れ住んでいた。つまり山越に身を寄せていたということである。孫翊は孫権の代になると,彼らを呼び寄せ自分の配下としたのであるが,盛憲の殺害が起き,それが呼び水となり,媛覧・戴員の反乱事件が起こった。彼らは曹操と連絡を取り,反乱を成就させるつもりだったが,孫翊の妻,徐氏の復讐を受け未遂に終わった。これらを見ても孫権旗下の人材は同じ考えの元に集まっていたわけではなく,様々な考えを持つ人材を孫権が微妙なバランス感覚で運用していったことが見えてくる。
  • そういった内部の問題と山越の問題で,再び孫権が黄祖討伐に乗り出すのはしばらく後になる。孫権は賀斉を使って各地の山越を討伐すると共に,黄祖討伐の準備を進め,ついに208年,再度黄祖討伐の軍を起す。この時の行軍では周瑜が前部大督(先鋒部隊の指揮官)を務め,凌操の子・凌統が先鋒となる。凌統は黄祖軍の武将・張碩(ちょうせき)を斬る。また呂蒙は黄祖の水軍を破り,その先鋒である陳就(ちんしゅう)の首を挙げる。黄祖は夏口の入り口に二隻の蒙衝船(駆逐艦)を並べ,そこから矢を放ち防御線を張る。しかし董襲・凌統が先鋒となり,蒙衝船に特攻をかけ,蒙衝船の碇(いかり)を立ち切ったため,蒙衝船は流れ出し,黄祖軍は総崩れとなった。黄祖は単騎で逃亡しようとしたが,騎士の馮則(ふうそく)が黄祖の首を挙げる。ここに孫権は父・孫堅以来の仇敵・黄祖を斬る事に成功した。孫権はこの勢いに乗じて荊州方面に進軍を開始するつもりだったかもしれない。だが,曹操の動きは孫権の予想を上回っていた。その年のうちに,荊州刺史の劉表が死去。激動の208年がスタートする。 
    • (注)208年の黄祖討伐は、董襲伝にも夏口での戦いであることが明記され、しかも孫権伝には城が落ちたとある。盛大な祝賀会が開かれた事を見ても夏口は落ちたと見て良いだろう。ところがである。208年秋からの曹操の荊州攻略の時点で、劉備は夏口に入ってから、魯粛・諸葛亮を柴桑に送り出している。つまり、普通に読めば、依然として夏口は孫権領ではなく劉琦が治めていた。(黄祖死後に劉琦が江夏太守となっている。)総合すると、208年春の黄祖討伐の時点で夏口まで落ちたのはおそらく事実であるが、秋になる以前になんらかの理由で夏口は劉琦が駐屯していた。では秋の時点での孫権側の最前線はどこか?というと、柴桑に首脳部が集結し、周瑜は鄱陽湖で軍事訓練を行っていたのだから、この辺りが最前線になる。つまり軍事的に見れば後退しており、あるいは黄祖の後任となった劉琦が夏口を再奪取した可能性もない事はないが・・・可能性としては薄いように思われる。もし劉琦と孫権の間に軍事衝突があったとすれば、正史のどこかにはヒントらしいものがあるはずだが、どうもそうした様子は見られない。とすれば、孫権の方で自主的に後退したと見るべきか?曹操が荊州侵攻を始めた時点では孫権は抗戦の態度を明確にしておらず、自主後退という可能性もありうる。あるいは、そもそもの黄祖討伐戦自体が占領が目的ではなく、黄祖を討つ事にあったか?だ。
    • (注)難しく考えすぎで、208年の黄祖討伐において、城を落としたにも関わらず占領しなかったのは、「曹操が南下したから自主的に撤退した」と考えるのが自然。この時点で曹操に臣従するのか、抗戦するのかは定まっていない。状況を把握するため、柴桑に集結し、臨戦態勢を整えるため鄱陽湖で軍事訓練を行ったのである。